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海蔵寺の墓所を散策してみました。
下は北条氏直のお墓です。
北条氏直は、1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原城を攻めた時に降伏させた北条氏政の子。氏政は自害したが、氏直は徳川家康の娘婿のため、助命され高野山に謹慎させられました。後に秀吉のお則衆となって一万石を領したとのこと。
広島浅野藩時代、家老を務める三家(三原浅野家、小方浅野家、東城浅野家)のうち、 東城浅野家の菩提寺が、この海蔵寺。
年表では、
元禄2年(1689年) 境内を整備し石組みの庭を造る。
文政9年(1826年) 鐘楼門再建し、現在に至る。
天保11年(1840年)本堂再建し、現在に至る。
元保元年(1864年) 蛤御門の変で幕府は長州藩追討を決定。長州藩は広島藩に仲裁を依頼。幕府と長州藩の談判が行われた。
とあります。浅野家は歴史上、重要な位置にいたのですね。
浅野家のお墓の特徴は「五輪墓」。
五輪墓とはもともとはインド発祥と言われていますが、日本では平安時代末期頃から供養塔として多く見られるようになったとあります。
五輪なので、5つの石が積み重なっています。
ウィキペディア では「 五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝殊型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。」とあります。参考にしてください。
さて、墓所を巡っていると、ご先祖のお墓をきれいに清掃しているおばあちゃんに会いました。
「おはようございます!」
「おはようございます。」
やっぱり挨拶はいいですね。
おばあちゃんのお名前は、栗栖タキコさん(80)。
聞くと、私の自宅のすぐ近くにお住まいだということがわかりました。
「まあ、東京からきんさった偉いお人かと思いました。」
・・・おばあちゃん、私のことをそんな・・・(*´ω`*)
おばあちゃんが墓前にいけている、一見さかき(榊)ですが・・・。
「こりゃあね、“しきび”言うんよ。こりゃあ根っこがついとるけえ長持ちするんじゃが、なかなか無いけえ廿日市までいかんと手に入らんのよ。」
へえ、そうなのか。知らなかった・・・。
ちなみにしきびと榊の違いはココ→しきびと榊の違い
無理言って清掃中の栗栖家のお墓の前で写真を1枚。
「いやあ、恥ずかしい」
って言いながらも、ちゃんと写真に写っていただきました。
「この上で大昔放火があってみな焼けてしもうたんよ。 」
などなど、タキコおばあちゃんはこの墓所のお話をいろいろしてくれました。
「 この上に山中家のお墓がありますよ。」
って教えてくれたタキコおばあちゃん。
このしっかりした門構えをした区画がそうです。
尼子方の名武将、山中鹿之介の次女、盛恵のお墓です。
山中鹿之介は、「山陰の麒麟児」と呼ばれ戦国時代~安土桃山時代に、山陰地方で活躍した武将。
広島は毛利元就が有名ですが、尼子も有名。その家臣であった山中鹿之介は、武勇伝が多く伝えられています。
次女の盛恵さん、いったいどんな人生を歩んだんでしょうか―。
それにしても、タキコおばあちゃん、色々と教えてくださってありがとうございました!
近所で会ったらよろしくお願いしますね!
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