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前回、
前々回の続き
がんすの坂井屋さんと仲村さんに別れを告げ、路地を歩いてみました。
草津っていう町は道がまっすぐじゃなく、カクカクっとしているのも実は特徴のひとつ。
以前、このあたりは海だったため(今は埋め立てられている)、いたるところに船着場があったそうです。そうなると船が停泊しやすいようにカクカクっとした地形に。その名残が今も残っているのです。
角をまがってすぐに
教専寺があります。この教専寺は浄土真宗のお寺で、今から450年以上前に建てられたお寺です。
本堂はこんなたたずまいでした。(今度ゆっくり来てみよう)
教専寺を出ると外塀に、写真がずらっと並べられていました。
写真で見る草津の今昔風景ですね。
これは野球チームの記念写真。
これは、草津幼稚園の卒園式とか草津婦人会が宮島に行った時とか。大正や昭和初期に写したもので、今となっては貴重な記録写真ですね。
この写真は、カキ(牡蠣)に関するあれこれ。
草津は漁港があったため、昔は牡蠣の一大産地だったようです。 県の水産試験場があったようで、昔はそうとう賑わっていたんでしょうね。
おおっ、これは相当古い写真だな。
「最後の参勤交代記念写真」というタイトルで、江戸時代に撮られた写真。
提供者は松古さんという人で、写っている人は松古吉郎兵衛師光ということなので、提供者の父親かお祖父さんかというところ。
江戸時代の人物や風景などの写真は、実は意外とたくさん存在している。(下をクリックすると写真が見れますよ)
>>「NEVERまとめ」で、江戸時代や明治初期の写真を見る<<
しかし、広島あたりではやっぱり貴重というかかなり珍しかったんだろうから、この写真はなかなかすごい。
だけど松古さんも、一緒の女性たちも、なんで正面向いてないんだろ?ギモン??
この写真は東京オリンピックの聖火ランナー。草津付近を通った時のもの。
2020年でもこんな風景が見られるのでしょうかね。
この写真は今の風景。広電草津駅がみえるおなじみの風景ですが、昔は・・・
このように川のほとりに民家が立ち並び、橋がかかってたんですね。昭和60年頃の写真。
この橋はそれぞれの専用の橋だそうです。これは知らなかった。
この民家が立ち並び、川幅が広くなったのが上の今の風景です。
写真パネルを見た後、ちょっと路地を散策。ちょっと写真でまとめてみました。
路地を抜けて旧道へ出たところです。
古民家も多いですよ。しかしながらだんだんと少なくなっています。
古い町並みはできる限り残していきたいですね。
路地ではこんな看板を発見。
看板のお店の入口からはコストパフォーマンスがいいお弁当が並んでいました。
散策の途中で、ちょうどかまぼこ店「亀康」さん前で、草津まちづくりの会による「歴史の散策見学会」に遭遇しました。
亀康さんの看板です。
そこから数歩歩いたところにちっちゃな祠が。
「願王地蔵尊」とはつまりお地蔵さん。
説明書によると、1810年(文化7年)と、1813年(文化10年)に草津本町で大火事が発生した時、その後1815年(文化12年)に台風が来て堤防が決壊した時、いずれもお地蔵さんのお陰で被害が最小にくいとめられたということから、「災害除け地蔵」として北面に向けて祭られています。
このお地蔵さんの前を通るとよく花を手向けて手を合わせる近所の人をよく見かけます。日常生活の中にしっかりとお地蔵さんが根付いていると感じます。
普段意識せずにそんな習慣ができている人、またそんな町に住むことができている人は、幸せだと思いますがいかがでしょうか。
格子戸の中には、見えにくいけどお地蔵さんがこっちを
「コラコラ、じろじろ見るんじゃない!」
と言ったかどうかは定かではありませんが・・・。(終)