天気は晴天。とても気持ちのいい一日でした。
写真で振り返ります。
大阪を出発して約2時間半。高野山の中心、「壇上伽藍」に到着。
朱色の塔は「根本大塔」と呼ばれ、高野山真言宗の「根本」となる建物で、全宇宙の中心となる「大日如来」を表す、とされています。
堂内には、中央に本尊、胎蔵大日如来、その四方に金剛界の四仏が安置され、一六本の柱に極彩色の十六大菩薩、壁の4隅には密教を伝えた八祖像が描かれています。
この塔は、昭和12年に再建されたもの。高さが十六丈(48.5m)あります。十六丈は、百六十尺で、仏さまの身の丈が「1丈六尺」とされているので、その十倍の寸法で計画された、と考えられています。
1200年前に創建されて以降、994年に落雷のために焼失して以来、火災と再建を繰り返し、現在6代目の建物で、骨組みは鉄骨造で、その外側に木材で造った建築部材を貼り付けています。
西塔。根本大塔に次ぐ高さの塔です。
六角経蔵。平安時代の末期に建てられたもので、美福門院(鳥羽法皇の皇后)が、鳥羽法皇の菩提を弔うために造られたものです。
金堂は、高野山全体の総本堂。修行僧が手を合わせる光景は、なんとも荘厳な雰囲気でしたね。
壇上伽藍の地を後にして、次に向かったのは「金剛峯寺」。
そもそも高野山は、平安時代の初めに、弘法大師・空海によって開かれた日本仏教の聖地。「総本山金剛峯寺」というのは、金剛峯寺だけのことを言うのではなく、高野山全体をさす言葉です。普通。お寺といえば、その敷地内を境内といいますが、高野山すべてが境内なのです。 現在では、117のお寺が存在し、そのうち52か所が宿坊(しゅくぼう)で、宿泊の宿となっているそうです。
中に入ると(写真は撮れません)金剛峯寺持仏間に安置される御本尊、弘法大師坐像を見ることができました。平成11年にご開帳されて以来、高野山開創1200年記念大法会が16年ぶりのご開帳となりました。そして時期、再びの御開帳がおこなわれています。
本坊には大広間、梅の間、豊臣秀次が切腹した柳の間など多くの部屋があり、狩野派などの有名絵師による豪華な襖絵も見られます。石庭もすばらしかったですね。
また昔ながらの大きな台所もあり、修行僧何千人分の炊き出しを行っていたそうです。この薪は、今でも使われているんでしょうか。
お昼になったので、近くの宿坊「福智院」で昼食タイム。
高野山にある52の宿坊のうちの一つで、唯一天然温泉と露天風呂があるそう。住職から食事前に話を聞きましたが、温泉の掘削をするにも当時は大反対にあったんだとか。それでも根気よく、皆を説得していったそうで、なんだか自分の仕事に通じるものを感じた次第。何事も熱意と忍耐が大切だということを教えられました。
高野山といえばやはり精進料理。肉や魚のない料理はふだんなかなか食べません。毎日これだとさすがに・・・・という感じですが、たまにはいいもんです。新味があって、おいしくいただきました。
福智院を後にした一行が次に向かったのは「奥之院」。地図を見ながら歩きました。
弘法大師入定の地に建てられた奥之院へ続く約2キロの参道を歩きました。周囲には20万基を超える墓石が立ち並んでいるそうで、地図を見ながら歩きました。
参道は木々に囲まれ、パワースポットのような感じ。参道の両脇には、昔の武将、著名人の墓石がごろごろ。これは武田信玄、八代将軍吉宗、昭和の名優・鶴田浩二さんの墓石もありびっくり。
司馬遼太郎さんもありました。また企業の墓石も多く、創業者や従業員さんの墓石も数多く見られました。
なんと織田信長公も。豊臣家もありましたよ。
遠い昔の武将から、歴代の著名人まで本当にたくさんの墓石がありました。やはりここはある意味、日本の中心なんだなあと実感しました。
一緒に研修に参加している岐阜県代表と沖縄県代表の美女2人とすれ違いました。(一人は自称真矢みき、うち一人は還暦。どっちがどっち?)
弘法大師御廟に到着。しっかりと手を合わせました。願いが通じることを祈って・・・・。
・・・さて帰りのバス出発の時間が迫ってきました。奥之院を引き返してバスに戻りました。
天気に恵まれ、気持ちいい研修旅行となりました。今度は、プライベートでゆっくりと訪ねてみたいと思いました。(終)
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